絵の熱量の話。
[命のトーチ]
前回のあらすじ。
「作者の思いが絵に情熱を宿し、それが見たものに影響を与える」
要約するとそれに尽きるが、これは決して根性論の話ではない。
例えば、人間の構造や心理学から学べば、ある程度までは視覚や造形物からある種の感情や情動を意図的に想起させることは可能だ。実際に公共のものには色や形に至るまでその手法がデザインとして使われている。
では、それだけで他者が感嘆を覚える”モノ”を誰でも作れるか?といえば、そうではない。
整ったな絵ならきっと描ける、下手をしたら、イラストを描くだけなら人間でなくても良い時代が来るだろう。すでに着色に関してはそういったアルゴリズムを持つ機能が作られている以上、そう遠くない話だ。
しかしそれは単に綺麗に形作られているだけである。美に綺麗という要素は含まれても、綺麗だから美とは言えない。綺麗というのは主観であり、その判定は見る側の心に委ねられる。
では、心は何でできているか。
あるロボット工学の方は、我々は互いに心があると勘違いして生きているという。とても面白い発想だが、自分はそれを聞いたときに、「そう思うこと自体がその人の心を表しているな」と思った。なぜなら、私たちの体が刺激に対して反応するのはそれを受容する器官が個々人に備わっているからだ。もし受容器官がなければ、私たちは他人を認識できない、あるいは自分自身も認識できない。逆に言えば刺激さえ感じられるなら、他人がいなくても他人を感じることができるだろう。
話を戻す。
自分の持論として、心は「感情の経験の記憶」でできていると考える。
なぜそんなものを蓄える機能があるのかと言えば、精神的な生存戦略の機能の一つではないかと推定している。
精神が生きるための機能だ。
これがどう絵の熱量の話に繋がるかとお思いだろうが、この「心は精神の生存戦略機能」であるという推定を出したかったのだ。
絵を見て心が揺り動かされるという現象は、精神の生存戦略としての何かを受容しているのではないか。
だからこそ生き死にのある存在、ここでは人間と仮定するが、これまでを生きてきた経験が意識的せよ無意識的にせよその挙動に反映される。絵描きならば、その絵に映し出される。
つまり私たちは、絵を見ながら、言葉にならない作者の精神的な生き方を得ているのではないか。
それが、私が絵に、あるいは気に入った美術品や、娯楽などでも良いが、そういうものから感じる熱量ではないか。
そう思うのだ。